凡庸な人間が積極的に生きる代償

50代ポジティブライフ

子供の頃、母親からよく言われたことは「普通でいいよ」でした。
実際の私は普通どころか普通以下、勉強も運動も平均以下をフワフワと漂っているような子でした。
『凡庸』を調べると「平凡でとりえのないこと」とあります。
普通の人にも何かしらとりえがあるもんですが、私には自分で考えてみても何のとりえもない・・・(探しまくればあったのかも知れないけど)凡庸という言葉に相応しい人間です。
それなのに妄想癖があったのか、夢みたいなことばかり考えて「何でも出来る。何にでもなれる。」と何の努力もしないくせに信じていました。
よく親には「大ぼら吹き(大きなことを言う虚言癖みたいなことかな)」と笑われたことを思い出します。
母親が言う、『普通』は優しさでした。自分が親になって社会で揉まれる子供たちを思うとよく分かります。
“そんなに頑張ろうと思わないで、元気で楽しくしていてくれたらいいから”
って気持ちなんだと思います。
今思えば、私の夢見がちな性格も大切に愛されて育ったが上、芽生える自己肯定感なんでしょうね(ありがたい(*’ω’*))。

その自己肯定感が元なのか、私はどこか大胆(鈍感)で時にとても積極的になります。
怖いものなしに行動してしまうんです。
そのせいで主婦のわりにたくさんの代償を払ってきました。
自分の時間
体力
人間関係や信頼
金銭

泣きたくなるような事態を定期的に巻き起こし
自分が嫌で立ち直れなくなることもあり
病気になって死にかけたことや必死で働いたお金を無駄にしてしまったこともありました。

そんな時、専業主婦として大人しくしていたらこんな目に合わなかったのに・・・と眠れない夜を過ごしたこともあります。ホントに今考えても泣きたくなります。

心穏やかに静かに暮らしたい・・・

投資の世界では、「何もしないのが一番」と言われますが、全く同感。

無知な私は、世の中がこんなに簡単にハイスピードで変わり、信じていた価値観もいとも簡単に変わることを知らなかったんだと思います。
悪意さえ他人事と考えるバカさかげんでした。現在進行形ですが・・・。

恐いですよね~親の愛と凡庸さが合わさるとこんな人間になる・・・。

でもね、この恐いもの知らずの積極性のおかげでジッとしていたら見れなかった景色をたくさん見ました。
心が沸き立つような瞬間を何度も味わい、心から笑った思い出もたくさん。
経営者になったり、息子と一緒の電車に乗って専門学校に通い、若い人に混じって学び修学旅行や体育祭に目一杯参加しました。
人生の最期、自分の人生を振り返って満足するのは多くの体験をした人だそうです。
その意味では、後悔ばかりではありません。

だからこそもっともっと賢くなりたい。
もっともっと学びたい。
もっと慎重にありたい。
健康でありたい。

と願います。

もっともっと飛ばなくちゃ⁉

実際、私が学ぼうと思った原点は失敗にあるからです。


知らなくて悔しい思いをしたことを無駄にしないぞと向き合いました。
今も私は普通の人間です。凡庸ともいえるかも。失敗ばかりしています。
おかんは60%になったり、25%になったりで賢くなった分、生命体として年老いています。

毎日、プラスマイナスがせめぎ合い(ホントしんどい(*_*))
なんとかプラスで進めたいもんです(*´Д`)

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